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コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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「なんとなく。」
なんとなく、つまりは感性?みたいなフィーリング?的な類の直感というべきもの、を大切にしたいと思って形にしたりしていたが、コンセプトというか方向性といった、概要を決める際にはとても大切だと思う。

ただ、この「なんとなく」精神を、形を決める際に重視すると、ものすごーーーーーく手間がかかるというか煩わしい状況に陥りやすくなってしまう気がする。
というのも、
・なんとなくで形を決めてしまうと、その場はしのげるが、時間とか間隔が空くと、そのときの「なんとなく」と、今の「なんとなく」に必ずと言っていいほどの齟齬が生じてしまい、その衝突ごとに方向性がぶれてしまうから。
→これを常用していたおかげで自分は毎度の如く、悩みまくる。悩む行為の是非はさておき、作業は非常に非効率。

・「なんとなく」だけの勢いで形にしてしまうと、どんだけいいアイデアを形にしていたとしても、間隔が空いたとき、そのアイデアの概要などを忘れてしまって、上手く発展させることができないこともある。
→直感で何かをするとき非常に重要なのは、その直感(閃き)はあくまで「そのとき」頭の中で発生しているだけなのであって、「そのとき」が過ぎれば大概忘れてしまう。

…なんというか、いいたいのはその閃き、直感そして「なんとなく」といった感性の類は、同一人物であってもいつも同じような閃きを持ち合わせているとは限らないということを理解というか、知る必要があると思う。

なので、とりあえず「なんとなく」の概要を、間隔が空いたときの自分に伝えるために、文字とか絵とかで概要を教える必要があると思う。
アイデアの発端、概要、どんなことをしたいとか形にしたいとか、目標はどうだとか、かなり量が多くなってしまうが、間隔が空く場合は特に、伝える術を多く持っていた方がいいと思う。後々の非効率作業を避けるためには。

んでもって、タイトルの意味はアイデアの概要(構造)等を知って(理解して)、場当たり的な「なんとなく」ではなく、ぶれない目標を持って形にすることができたらいいんじゃないか、という意味で付けた。
この考え方を会得したい。実践することはまだまだ難しい…

究極の理想論は、「そのとき」の「なんとなく」のアイデアを、そのまま完成まで突っ走る。
そうすると橋渡しの齟齬も生じず、非常に効率的ではないかと思う。
※そのアイデアが、いじる必要なしに完成度が高いのであれば、だけど。
翌日、昨日ひらめいたアイデアの形にしたものをみて「何これ?クソやなぁ」と思わないほどの完成度があるのであればいいと思う。

勢いのまま突っ走ることと、冷静になって思考することのどっちもメリット・デメリットがあるから、どっちを重視すべきか未だに悩む。
難しいなぁ…
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最近、行動する際には何よりも、心持ちが一番重要だと痛感中。
今まさに絵ー描く意欲がない。
意欲がない=やる気がない。やる気がない=熱意がない。熱意がない=意欲がない。…
といった具合に、個人的に今、心を突き動かす『熱』が足りない。
どうしたモノやら
前回の日記に関連して、思ったこと。
前回の日記は中々のネガティベーション溢れる文章だったが、さすがに普段はそこまで考えて行動できない。
ただ、日頃の自分の行動を後々鑑みてみるに「こんな考えが根底にあるのかもなぁ」と思ったのを、日記に記した。

ただ、これ自体も思いこみの一種なのかもしれないなと思った次第。
何か禅問答みたい。
どこまで思いこみかは分からないが、だからといって第三者から自分がまったく思いも寄らない自分の性質を指摘されても、まったく理解というか実感ができない。(指摘されたことを自分自身で意識するきっかけになるかもしれないけれども)
そういった意味では、自分の分かる範囲で自分の性質を見るのも主観が混じるかもしれないが、必ずしも悪いことではないような気もする。

結局何が言いたいかというと、前回の日記のようなことを念頭に置きながら日常を行動するなど到底不可能であるということと、そこまでネガティブじゃないときもあるということだ。


…これ何の日記だろう。
自分は、自分自身の行動に価値があるのか懐疑的だ。
懐疑的というより、意義を見いだせていないというべきか。
行動した結果は当然返ってくるものだが、結果がどうあれ、良くても自分の行動に対して価値とか、自分自身の自信に直結することがなかなか無い。
そもそも、自分の判断基準が今まで「いい」「悪い」でしか判定していなかった。少なくとも社会的な規範とかモラルを守ることは「いい」ことなので、それに対する行動の価値はあると思っているし、それを守ろうと行動する。
だが、その判断基準は「他」によるもので、自分自身の「個」の行いに対しては、決して当てはまるものでは無い。
だからというべきか、自分自身の行動に意味があるのか何をもって判断するべきかいまいち掴み切れていない。最近、「やりたいこと」だとか「目標に向かって行動すること」を判断基準にするべきなのかもしれないと、徐々に実感を得てきてはいる。
それがここ一番の最近の悩みどころなのだが、果たして「自分のやりたいこと」に価値があるのか?ということである。なんというか、「他」の判断基準に依存してしまっていたせいか、他の益がないと自分の行動に価値はないのではないか、とか「個」の基準と「他」の基準が判別し切れていない感じ。詰まるところ、自分の意志を主張することに対して、腹を括れていない部分がある。
ただ、いい加減、自分ももどかしいというか、煮え切らない態度というか、そういったぼんやりとした基準じゃいけないと思い、何とかしたいと思っているが…
今まで外での人と接するときは、きちんと「他」の判断基準を以て行動できるのだが、自分の行動にいまいち価値を感じていないので、自分個人のことに対してはのんべんだらり、節度もなく、目標もなく、ぼんやりとしてしまう。
やりたいことがないわけではないが、それに価値があるのか。それを以て行動していいのか、行動したいのかいまいち分かっていない。
その「個」に対する基準の取っかかりだけでも、今年は体感したいなぁと思う。まずは自己主張することを努力したい。


ちなみに、絵を描くことだけに関しては、価値もクソもなく、「好きだから」でダラダラと続いている。
よく考えると絵を描くことに対して価値を感じているのだろうと思うが、おもしろいからだけなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。よく分からないが、個に対して自発的に行動することが極端に少ない自分としては、このことを大切に思わないといけないのかもしれない。
何も考えず手癖で形を作っていくと、形状に関していえば自分の嗜好に沿った形にそのままなる。
つまり、自分の考えを変えていかない限り、嗜好に寄った、似たり寄ったりな形ばかりになってしまうと思う。
だからこそ自分自身で、描きやすい・好み云々以前に進んで描かないような形を題材に掲げて挑戦していくことも必要なんじゃないかと思う。
「挑戦する」とか大げさに考える必要はなく、常日頃からの手癖で描いたものから「なにか」を見つけてそれを描く上で意識するとかすれば、発展していっていると思う。
「なにか」を見つけようとする意欲が一番大切なんじゃないかと思う今日この頃。

※あくまで個人のオリメカの形状を考える際に思ったことなので、塗り、デザインなどが上記に当てはまる限りではない。

…そう思うと、いつも同じような内容を繰り返し書き込む自分は、果たして発展していっているのだろうか…
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