コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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究極的に言えば、人生ある程度二択で決まる部分があるかもしれない。
「やる」か「やらない」か。
もとい「Yes」か「No」か。
そんなことをふと思ったのは、物事は結果としての「出来・不出来」で判断されることが多いが、挑戦する、実行するかどうかという段階では結局のところ、自分の意志で決定されることが大半だということに気がついたからだ。
「自信がないから挑戦しない」などとよく自分は言うが、「自信がない」なんて結局のところ、どーでもいいのだ。
どんな理由であれ結果的に、挑戦しない、実行しない、Noということを選んだことになる。
だが、逆に考えると、どんなことでも挑戦はできるのだ。実行は可能なのだ。「行動」はできるのだ。
当然結果が伴うかは分からないが。
自分は
「人間のキャラクターは描けない」
とよく思うが、よく考えると
「人間のキャラクター(をうまく)は描けない」
ということになるのだ。
当たり前だ。手があって、鉛筆が握れて、ロボットを描いているくせに人間のキャラが物理的に描けないなんてありえない!
そんなことを考えていると、少し苦手なものも「できる」ということに気づき、ちょっと挑戦してみようかな?と思えるようになった。
一時的な自己暗示のような考え方かもしれないが、この考え方は自分のような否定的、根暗な人間にはありがたいと思う。
「やる」か「やらない」か。
もとい「Yes」か「No」か。
そんなことをふと思ったのは、物事は結果としての「出来・不出来」で判断されることが多いが、挑戦する、実行するかどうかという段階では結局のところ、自分の意志で決定されることが大半だということに気がついたからだ。
「自信がないから挑戦しない」などとよく自分は言うが、「自信がない」なんて結局のところ、どーでもいいのだ。
どんな理由であれ結果的に、挑戦しない、実行しない、Noということを選んだことになる。
だが、逆に考えると、どんなことでも挑戦はできるのだ。実行は可能なのだ。「行動」はできるのだ。
当然結果が伴うかは分からないが。
自分は
「人間のキャラクターは描けない」
とよく思うが、よく考えると
「人間のキャラクター(をうまく)は描けない」
ということになるのだ。
当たり前だ。手があって、鉛筆が握れて、ロボットを描いているくせに人間のキャラが物理的に描けないなんてありえない!
そんなことを考えていると、少し苦手なものも「できる」ということに気づき、ちょっと挑戦してみようかな?と思えるようになった。
一時的な自己暗示のような考え方かもしれないが、この考え方は自分のような否定的、根暗な人間にはありがたいと思う。
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今日ふと思ったこと。
自分はある程度「オリジナル」と自負してロボットを考えて描いていますが「オリガン」とか「オリメダ」っていったい何なんだろう。
「オリジナル」の「ガンダム」って一次創作?いや、やっぱり「ガンダム」の冠をつけているからには二次創作になる?
「オリメダ」という「オリジナル」の「メダロット」も二次創作?
よく分からん。
ただ、自分なりの考えを述べるならば、これらは版権を利用している一方で、まったく違うものなんじゃないかと思う。
だって、自分が考えた「オリジナル」の「○○」だから。
だから、紛らわしくしないために、○○の「様なもの」という認識でそれらの作品を見るべきじゃないかと思う。インスパイアなりそれらの作品をリスペクトして「自分が考えた○○」という制作者の考えならば、もうオリジナルに限りなく近いんじゃないかなぁと思ったり。
しかし「オリジナル」じゃ脚光を浴びないから、版権の名を語って脚光を浴びようとする、とかの邪推もなくはないけれども…
純粋な創作意欲とリスペクトで描いてくれていることを切に願います。
外からインプットする内容が少ないせいか、どんな発想も何かを煎じている気がしてならない最近。
今の自分が考える「新しい」とは、本当に新しいのかすら疑問にもってしまう。これは外の既存のなかに同じ発想があるかどうかという意味ではなく、自分自身が過去に同じような発想をすでにしているかもしれない、という疑心暗鬼というかなんというか、そんな気持ち。
過去の自分が考えた発想なら、根本から、ガッツリと異質な発想ではないということになる。むしろ延長線上と言うべきか。
何か、まったく違うものを生み出せたら最高なんだけれどなぁ~。
今の自分が考える「新しい」とは、本当に新しいのかすら疑問にもってしまう。これは外の既存のなかに同じ発想があるかどうかという意味ではなく、自分自身が過去に同じような発想をすでにしているかもしれない、という疑心暗鬼というかなんというか、そんな気持ち。
過去の自分が考えた発想なら、根本から、ガッツリと異質な発想ではないということになる。むしろ延長線上と言うべきか。
何か、まったく違うものを生み出せたら最高なんだけれどなぁ~。
考えながら描くことは果たして創作活動において有効だろうか。
当然有効だろう。
そりゃ考えないと始まらないが、考え込むことはあまり良くないのかもしれないと思う。
考え込んでしまうと、願望やこだわりに没頭してしまうというか、考えた理想だけを追求してしまうきらいが自分にある。
ただ、創作することにおいて、頭の中の考えだけが全てではない。当たり前だ。
「棚からぼた餅」で自分が考えていたもの以上にイメージに「より近い」発想が転がり込んでくることもある。
感性とは理論でねじ伏せることは到底できないことだと思う。だが、考え込みすぎるとそんなことさえ忘れてしまうので気をつけないといけない。
これは自戒の文章だなぁ…
当然有効だろう。
そりゃ考えないと始まらないが、考え込むことはあまり良くないのかもしれないと思う。
考え込んでしまうと、願望やこだわりに没頭してしまうというか、考えた理想だけを追求してしまうきらいが自分にある。
ただ、創作することにおいて、頭の中の考えだけが全てではない。当たり前だ。
「棚からぼた餅」で自分が考えていたもの以上にイメージに「より近い」発想が転がり込んでくることもある。
感性とは理論でねじ伏せることは到底できないことだと思う。だが、考え込みすぎるとそんなことさえ忘れてしまうので気をつけないといけない。
これは自戒の文章だなぁ…
最近ネタがなくなりどん詰まり状態なので、過去の未完成のアイデアを引っ張り出してなんとか絵を描いているが、これは果たして「創作」といえるのだろうかと疑問に思う。
過去から発掘したアイデアを今再び独自に考える。このことは悪いことではないと思う。
だが、これも見方によれば「過去の発想」にすがっているとも言えなくもない。
「創作活動」において自分が重要視しているのは「発想」だ。この創作物の根底にある「視覚にない」要素が一番大切だと思う。最終的に形が被ってしまうことがあっても、この「発想」を独自につくっていたのなら胸を張ってアウトプットできると思う。「パクリ」じゃないから。
そういう意味では自分が言う「発想」とは、その創作物の「アイデンティティ」みたいなものなのかもしれない。
話がそれたが、この発想を「過去」から拝借している現状はなんというか「攻め」の創作活動じゃない気がする。
自分なりに新しい発想を生み出すということは、独自に新しく開拓していくことだと思う。だから、無駄に空回りしたり苦労が絶えない。けれどもそれが自分の中の発想の幅を広げていくことになるのなら、決して無駄にはならないと思う。
まぁ根本の原因は、その発想(ネタ)を完成させずに次に放り投げている自分の「飽きっぽさ」が諸悪の根源なんですが…
過去から発掘したアイデアを今再び独自に考える。このことは悪いことではないと思う。
だが、これも見方によれば「過去の発想」にすがっているとも言えなくもない。
「創作活動」において自分が重要視しているのは「発想」だ。この創作物の根底にある「視覚にない」要素が一番大切だと思う。最終的に形が被ってしまうことがあっても、この「発想」を独自につくっていたのなら胸を張ってアウトプットできると思う。「パクリ」じゃないから。
そういう意味では自分が言う「発想」とは、その創作物の「アイデンティティ」みたいなものなのかもしれない。
話がそれたが、この発想を「過去」から拝借している現状はなんというか「攻め」の創作活動じゃない気がする。
自分なりに新しい発想を生み出すということは、独自に新しく開拓していくことだと思う。だから、無駄に空回りしたり苦労が絶えない。けれどもそれが自分の中の発想の幅を広げていくことになるのなら、決して無駄にはならないと思う。
まぁ根本の原因は、その発想(ネタ)を完成させずに次に放り投げている自分の「飽きっぽさ」が諸悪の根源なんですが…