コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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既存の創作物を使って、自分なりに手を加えることを二次創作だと自分は認識している。だとするならば、自分は「過去の自分のネタ」を題材にして考えることが多々ある。これも二次創作か?
二次創作の題材といえば版権作品の場合がほとんどだろうが「既存の創作物」という基準で見れば、過去のネタも一次創作物に成り得る…のか?
なんでこんな事を考えているのかといえば、最近ネタが浮かばないからである。だからちょくちょくと過去の未完成ネタを題材としてちょこちょこらくがきをしているのだが、果たしてこの行動が真っ当な創作活動といえるのか?と疑問に思ったからである。
ここで自分のいう「真っ当」とは、自分なりにでも新しいアイデアを形にすることであり、この考えでいくと上記の過去ネタイジリはこれに反する。
そもそも現状ネタがないのは、過去ネタが未完成であることも原因の一因だと思っている。
なぜなら、完成していないから確定していない。いじれるということは、他のアイデアと比較して差別化できない。変更できるから。だからどれもこれもピンぼけして方向性がぼやけてしまっているような感じ。
かといって完成させることがなかなか難しい…
趣味なのでなるべく満足できるまでいじりたい!
何よりも考えることが好きだ!!
といった、好きなこととやりたいことが二律背反的ななにかになってしまっているようなジレンマを感じる。 しかし、区切りを付けなければいけないのは認識しているので、個人的な〆切りを作る必要があるなぁ・・・ 完成の基準をどうつけるかを模索していこうと思う。
二次創作の題材といえば版権作品の場合がほとんどだろうが「既存の創作物」という基準で見れば、過去のネタも一次創作物に成り得る…のか?
なんでこんな事を考えているのかといえば、最近ネタが浮かばないからである。だからちょくちょくと過去の未完成ネタを題材としてちょこちょこらくがきをしているのだが、果たしてこの行動が真っ当な創作活動といえるのか?と疑問に思ったからである。
ここで自分のいう「真っ当」とは、自分なりにでも新しいアイデアを形にすることであり、この考えでいくと上記の過去ネタイジリはこれに反する。
そもそも現状ネタがないのは、過去ネタが未完成であることも原因の一因だと思っている。
なぜなら、完成していないから確定していない。いじれるということは、他のアイデアと比較して差別化できない。変更できるから。だからどれもこれもピンぼけして方向性がぼやけてしまっているような感じ。
かといって完成させることがなかなか難しい…
趣味なのでなるべく満足できるまでいじりたい!
何よりも考えることが好きだ!!
といった、好きなこととやりたいことが二律背反的ななにかになってしまっているようなジレンマを感じる。 しかし、区切りを付けなければいけないのは認識しているので、個人的な〆切りを作る必要があるなぁ・・・ 完成の基準をどうつけるかを模索していこうと思う。
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趣味の創作活動に楽しむ以外の「なにか」を持ってくるとおかしくなる気がする。
自分の場合、それは義務感なのだが、持ってきたところで頗る調子が悪い。
むしろ義務感を持たせることで自分を追い詰めていたのかもしれない。
なぜ義務感を持ってこようと思ったのは、最近絵を描いていなかったからであり、他の優先順位に押し流されることなく描けるようになりたかったからだが、むしろ裏目に出てしまった。
焦って逆に描けない。
ところが、寝て覚めてふとぼんやりと鉛筆を握ると、あっさり描けた。
いままで「なにか」を持ってきたおかげで「絵を描くこと」自体に、付加価値を持ってしまっていた。
そんなしがらみなんか考えずに「描きたいものを描けられればいい」程度の気持ちで向き合った方がいいのかもしれない
と、頭でっかちなりに思う。
自分の場合、それは義務感なのだが、持ってきたところで頗る調子が悪い。
むしろ義務感を持たせることで自分を追い詰めていたのかもしれない。
なぜ義務感を持ってこようと思ったのは、最近絵を描いていなかったからであり、他の優先順位に押し流されることなく描けるようになりたかったからだが、むしろ裏目に出てしまった。
焦って逆に描けない。
ところが、寝て覚めてふとぼんやりと鉛筆を握ると、あっさり描けた。
いままで「なにか」を持ってきたおかげで「絵を描くこと」自体に、付加価値を持ってしまっていた。
そんなしがらみなんか考えずに「描きたいものを描けられればいい」程度の気持ちで向き合った方がいいのかもしれない
と、頭でっかちなりに思う。
何となく書く気力があるので書く。
客観的な視点を得るには、主観的でなければいいわけで。
主観的な状況というのは、一つのことをひたすらやっている最中であるわけで。
単純に考えると、ひたすら一つのことをやっている最中でなければ客観的だと思う。
だとするならば、物理的な意味で「やらない」ことが一番手っ取り早い。
気分転換とか、時間を空けるとか、考えることを中断させることが重要だと思う。
コンピュータでいうところの、再起動といった具合か。
ただ、そもそも「客観的にならないと」と思うこと自体が多少客観的であると言えると思う。
本当に主観的視野に陥っていると「主観的であること」さえ頭から抜け落ちてしまうから。
もしかすると客観的に考えるには「主観的になっている」と認識することが一番肝心なのかもしれない。
やっぱり自分なりの答えが出せない。
「答えを出すこと」自体が主観的だと思えてしまうから。
また、主観的であるのは決して悪いことではないし、けれども冷静に判断するためには客観的な視野が必要だと思うし…
自分の中で主観と客観の意義を、主観的にでもいいから考えないといけないような気がする。
とにかくまず第一に、このややっこしい思考ルーチンをどうにかしたい!!
客観的な視点を得るには、主観的でなければいいわけで。
主観的な状況というのは、一つのことをひたすらやっている最中であるわけで。
単純に考えると、ひたすら一つのことをやっている最中でなければ客観的だと思う。
だとするならば、物理的な意味で「やらない」ことが一番手っ取り早い。
気分転換とか、時間を空けるとか、考えることを中断させることが重要だと思う。
コンピュータでいうところの、再起動といった具合か。
ただ、そもそも「客観的にならないと」と思うこと自体が多少客観的であると言えると思う。
本当に主観的視野に陥っていると「主観的であること」さえ頭から抜け落ちてしまうから。
もしかすると客観的に考えるには「主観的になっている」と認識することが一番肝心なのかもしれない。
やっぱり自分なりの答えが出せない。
「答えを出すこと」自体が主観的だと思えてしまうから。
また、主観的であるのは決して悪いことではないし、けれども冷静に判断するためには客観的な視野が必要だと思うし…
自分の中で主観と客観の意義を、主観的にでもいいから考えないといけないような気がする。
とにかくまず第一に、このややっこしい思考ルーチンをどうにかしたい!!
発想を得た題材によって形作る考え方を変えないといけないと思う。
例えば「○○のような」といった、具体的な題材があるときは、その題材のような形を目指す。
一方で、何かの拍子でポッと浮かんだフレーズなんかを形にしようとするならば、その言葉を手段とおきかえる。
そして、その手段を「目的化」して、その目的を達成するための手段を考える。
※なぜ手段化して目的化させるという回りくどいやり方をするかといえば、そのフレーズをいきなり目的としても意味がわからないから。意味のあるフレーズを思い付くこともないことはないが、それはすでに具体的なので上記にあてはまる。
・・・といった方法があると思う。
こういった考えを常に念頭において創作活動が出来ればいいのだが、考えている最中だとやはり主観的になってしまい、グダって泥沼に嵌まってしまう。
客観視できるようになりたい。
例えば「○○のような」といった、具体的な題材があるときは、その題材のような形を目指す。
一方で、何かの拍子でポッと浮かんだフレーズなんかを形にしようとするならば、その言葉を手段とおきかえる。
そして、その手段を「目的化」して、その目的を達成するための手段を考える。
※なぜ手段化して目的化させるという回りくどいやり方をするかといえば、そのフレーズをいきなり目的としても意味がわからないから。意味のあるフレーズを思い付くこともないことはないが、それはすでに具体的なので上記にあてはまる。
・・・といった方法があると思う。
こういった考えを常に念頭において創作活動が出来ればいいのだが、考えている最中だとやはり主観的になってしまい、グダって泥沼に嵌まってしまう。
客観視できるようになりたい。
自分は偏食家らしい。
※創作活動に関する話題です。
主に自分が「描きたい」と思う事柄は新しいアイデアである。
つまり新ネタ。
これをひらめいて、手応えを感じる形を描けた時は、すごくうれしい!
ただ逆に既存のネタには創作意欲が沸きにくい。
再び意欲が沸いて来るとき、それは既存のネタに新たなアイデアがひらめいた時ぐらいだろう。
これが、この思考が一番厄介であることに気づいた。ネタが完成しないのである。
古いネタを置き去りにして、新しいネタに取り組んでいた。
しかもそれを次から次へと繰り返したおかげで、未完成ラフが山積し、人に見せられるものができない。
ではなぜ、既存のネタを形にしないのか?
ずばり、陳腐に見えるから。
時間が経って見直してみると、当初ひらめいて喜々として描いていたときより、明らかにつまらない。
ありきたりに感じてしまう。
そしてそれをありきたりと感じた時点で、新しいもの好きの嗜好からなる創作意欲は、ゴッツリと減退してしまうのだ。
現状、自分にとって
新ネタ>>完成させること
といった、いびつな価値観を持ってしまっている。
この価値観を真逆にすることは難しいが、この特性を創作活動に利用できないか絶賛検討中。
まずは数少ない、完成したネタの経緯を思い出していこうと思う。
※創作活動に関する話題です。
主に自分が「描きたい」と思う事柄は新しいアイデアである。
つまり新ネタ。
これをひらめいて、手応えを感じる形を描けた時は、すごくうれしい!
ただ逆に既存のネタには創作意欲が沸きにくい。
再び意欲が沸いて来るとき、それは既存のネタに新たなアイデアがひらめいた時ぐらいだろう。
これが、この思考が一番厄介であることに気づいた。ネタが完成しないのである。
古いネタを置き去りにして、新しいネタに取り組んでいた。
しかもそれを次から次へと繰り返したおかげで、未完成ラフが山積し、人に見せられるものができない。
ではなぜ、既存のネタを形にしないのか?
ずばり、陳腐に見えるから。
時間が経って見直してみると、当初ひらめいて喜々として描いていたときより、明らかにつまらない。
ありきたりに感じてしまう。
そしてそれをありきたりと感じた時点で、新しいもの好きの嗜好からなる創作意欲は、ゴッツリと減退してしまうのだ。
現状、自分にとって
新ネタ>>完成させること
といった、いびつな価値観を持ってしまっている。
この価値観を真逆にすることは難しいが、この特性を創作活動に利用できないか絶賛検討中。
まずは数少ない、完成したネタの経緯を思い出していこうと思う。