コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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ここ最近、ほっとんど絵を描いていない。
が、ふとしたことで過去の絵を見直すことがある。主にネタ探しの時だけれど。
そうすると、過去の絵に比べるとやはり、多少の進歩というか、ナマケモノの歩く速さぐらいの成長というか、デッサン力はむしろ落ちていると思うが(デッサンしていないから)頭の中で考えたものを形にする際、より情報を盛り込めるようになった気がする。
その要因は心持ちの問題なのかもしれないが、以前は頭の中の「ぼんやり」を、指でちぎって丸めて形を出力していたが、今は頭の中の「ぼんやり」をちぎってベチャッとそのまま出力することを心がけているような気がする。
頭の中の「ぼんやり」を、さらに頭の中で加工しても、そのとき浮かんだ貴重な情報をスポイルしてしまうことが多かった。
一方、ある程度形になっていないものを実際に出力すると、まとまっていない分、情報がゴチャゴチャしている。だが、良くも悪くも情報をスポイルしていないので、より自分の「ぼんやり」に近づけた形を作ることができるんじゃないかと思う。
「ぼんやり」は自分にとっての最強の理想型なんだろうし、それをそのまま形にすることができたら尚、いいんだけれども…そこに到達するのはものすごく大変なんだろうなぁと思う。むしろ無理かも
久しぶりに絵を描いて、アイデアの形作り方を忘れてしまったが、ぼちぼちやっていこうと思う。
が、ふとしたことで過去の絵を見直すことがある。
そうすると、過去の絵に比べるとやはり、多少の進歩というか、ナマケモノの歩く速さぐらいの成長というか、デッサン力はむしろ落ちていると思うが(デッサンしていないから)頭の中で考えたものを形にする際、より情報を盛り込めるようになった気がする。
その要因は心持ちの問題なのかもしれないが、以前は頭の中の「ぼんやり」を、指でちぎって丸めて形を出力していたが、今は頭の中の「ぼんやり」をちぎってベチャッとそのまま出力することを心がけているような気がする。
頭の中の「ぼんやり」を、さらに頭の中で加工しても、そのとき浮かんだ貴重な情報をスポイルしてしまうことが多かった。
一方、ある程度形になっていないものを実際に出力すると、まとまっていない分、情報がゴチャゴチャしている。だが、良くも悪くも情報をスポイルしていないので、より自分の「ぼんやり」に近づけた形を作ることができるんじゃないかと思う。
「ぼんやり」は自分にとっての最強の理想型なんだろうし、それをそのまま形にすることができたら尚、いいんだけれども…そこに到達するのはものすごく大変なんだろうなぁと思う。むしろ無理かも
久しぶりに絵を描いて、アイデアの形作り方を忘れてしまったが、ぼちぼちやっていこうと思う。
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オリジナルというからには、この○○には今までにない独創的な発想がある!!
…と胸を張って言えることが一番の理想だが、なかなかそこまで独創的な発想は浮かばない。
未来永劫凡人には浮かばないのかもしれない。
だが、オリジナルであると主張するのであれば、なるたけ「○○のような」「~~みたいな」といった、既存のモチーフの形状をパクったりせず、あるモチーフを参考にするにしても、自分なりに解釈して(○○するために■がついている)消化して(なら自分だったら○○するために★をつけよう、とか)、自分なりの概念を持たせられれば、オリジナルって言えるものが作れると思う。
物体系(メカとかそんな感じのやつ)のオリジナルは、定義の範囲が広いから、自分が考えている「ぼくのかんがえた○○」なんぞ、そのジャンルの一角に過ぎない。
そのことは分かってはいるものの、やはり深層心理か何か無意識的に深く根ざした「自分なりのジャンル定義」があって、その枠を越えることはなかなか難しい。
自分で定義を狭めているというか、意識しないとその枠を越えた「何か」を形にすることはできないと思う。
たとえば「メカ=ガンダム」と思っている人は、意識しないとガンダムっぽいメカばかり描いてしまうことにもなるし、また「ボトムズ」のようなATみたいな形のメカなど発想の視覚外、アウトオブ眼中であって選択肢に浮かんでくることすらないだろう。
ただ、これは真に「オリジナル」と言えるかどうかあまり自信が持てない。
なぜなら、描いたモノが自然と「ガンダムみたいな」モノになってしまうから。
だからこそ、自分なりの概念(オレ概念)を練り込んで独自性を出すなど、意識して違うものを生み出す心意気を持たないといけない気がする。
少なくとも形状が被ることがあってもオレ概念で形にしたのならば、胸を張って「コイツはオレのオリジナルだっ!」って言えると思う。
少なくとも「パクリではない」と断言できると思う。
また、自分で考えた発想自体も「既存」のモノなので、真にオリジナルを追求したいのであれば、常に新しい概念なり発想を発掘しなければならない。
また、その発想自体が必ずしも良いモノを生み出すとも限らない。
※良いモノなんてそもそも個人的な趣味でやっている範囲では関係ないけれども、自己満足できない発想かもしれないと言うこと。
なので
オリジナルは大変だ!!
と常々思う。
※文章を書く気力が尽きたのでひとまずここで終了
このブログもなんとかせんとなぁ…
独り言をつぶやくだけになってしまった
哲学的な話になるが、以前は「もの」がある理由は「存在するから認識する」という、至極当たり前dあるから存在するじゃん、という考え方だったらしい。
ところが、カントさんか誰かが「認識するから存在する」という、あると分かるから存在する、という発想の転換で哲学が発展していったらしい。(ネットでちらっとかじった程度の付け焼き刃の知識)
そんなことを知って、何かこの発想を利用して創作の手法に組み込めないか考え中。
たとえば「手があるから○○する」という考え方で形にするのではなく「○○するから手がある」という、理由があるから存在する、みたいな考え方で形にしてみたらおもしろそうだなぁと思う。
何となく惰性というか固定観念で形を決めてしまっているきらいがあるので、これの改善を試みたい。
そう考えると、一番の障害は「自分の認識」なのかもしれない。
ところが、カントさんか誰かが「認識するから存在する」という、あると分かるから存在する、という発想の転換で哲学が発展していったらしい。(ネットでちらっとかじった程度の付け焼き刃の知識)
そんなことを知って、何かこの発想を利用して創作の手法に組み込めないか考え中。
たとえば「手があるから○○する」という考え方で形にするのではなく「○○するから手がある」という、理由があるから存在する、みたいな考え方で形にしてみたらおもしろそうだなぁと思う。
何となく惰性というか固定観念で形を決めてしまっているきらいがあるので、これの改善を試みたい。
そう考えると、一番の障害は「自分の認識」なのかもしれない。
本当に何も浮かばない状態の「何も考えない」状態に見事にハマってしまって、どうにももどかしい。
描いたラクガキはまるでガチガチのダメダメ状態。むしろ描かない方がいいのか?
今は本当に何も考えられない「何も考えない」状態であるが、何か新しい、自分にとっても視覚外の絵を描くことができるのも「何も考えない」状態だと思う。
強いていえば、手がノリで勝手に描いて、見て自分がバランスを受動的に調整するというか、描くことが先で考えるのが後の状態というか…体感しかしたことないので表現が難しいがそんな感じ。
そういった状態になると、新しいアイデアが降ってきやすい気がする。無意識のイメージを形にしやすいというか何というか。
そんなことを考えると、感性に関わる事柄は「考える」という意識だけに執着するのは良くないのかもしれないと思う。感覚的・無意識的な要素も加味して「なんとなくイメージ」が形成されるのかもしれない。
難しいなぁ…
新しいアイデアを発掘するコツを掴みたいが、上記の「何も考えない」状態は、どちらかというと感覚的で非常にあやふやな、安定しない部分が多すぎるので会得するのはかなり困難な気がする。
描いたラクガキはまるでガチガチのダメダメ状態。むしろ描かない方がいいのか?
今は本当に何も考えられない「何も考えない」状態であるが、何か新しい、自分にとっても視覚外の絵を描くことができるのも「何も考えない」状態だと思う。
強いていえば、手がノリで勝手に描いて、見て自分がバランスを受動的に調整するというか、描くことが先で考えるのが後の状態というか…体感しかしたことないので表現が難しいがそんな感じ。
そういった状態になると、新しいアイデアが降ってきやすい気がする。無意識のイメージを形にしやすいというか何というか。
そんなことを考えると、感性に関わる事柄は「考える」という意識だけに執着するのは良くないのかもしれないと思う。感覚的・無意識的な要素も加味して「なんとなくイメージ」が形成されるのかもしれない。
難しいなぁ…
新しいアイデアを発掘するコツを掴みたいが、上記の「何も考えない」状態は、どちらかというと感覚的で非常にあやふやな、安定しない部分が多すぎるので会得するのはかなり困難な気がする。
現段階の自分の理想型を箇条書き。
・情報が多く含まれていながら雑然としていない。
・情報量が多いくせに描きやすい形。
・そして情報の少ない空白部分とのメリハリがきいている。
・形状自体はシルエットでみると単純な形。
・構造的な矛盾が少ない。
・そのくせ関節部分は露出せずきちんと保護される。
・プロポーションの傾向にかかわらず「かっこいい」かたち。
・パクリではない
…などなど、挙げると正直きりがないが、何となく羅列してみた。記事の埋め合わせといわれても否定はできない。
昔は自分の嗜好というか、自分の描く絵には自分自身否定的であったが、何かここ最近は考え方を変えたいという気持ちが強くなった。
「個性」だとか「画風」だとかで、自分の絵を自分で定義することを極端に嫌っていたので、自分の描く絵に否定的になっていたが、何というか「観念する」とは違うが「定義すること」と、そうであると「認識すること」は違うのかもなぁと最近思うようになった。
実際、今現在も「MoreBetter」をめざしてらくがきを続けているが、現段階で自分がどう思っていようと、描けないものは描けないし、なんだかんだで自分にとって好みの絵を描いてしまう。この、絵に関する方向性ないし好みは、良くも悪くも自分の「特徴」であり「個性」になっている。(個性という言葉は今もスカン)
だからといって、この今の個性に縛られる必要は微塵もなく、これからどうするかは勝手なわけで。
「自分は○○に強い」といった自身に対するある種の思いこみ・自信は描く原動力としても、絵の方向性を決める要因としても十分だと思う。
だが、自分自身、絵を描くという創作活動にこれといった自信は限りなく希薄で、ただ「人並みに描ける分野がある」くらいしか認識していない。というかできない。
だからこそ、個性という言葉に惑わされず、自分の意志で方向性を決めていきたいなぁと思った次第。
それを踏まえた上で、自分の嗜好ないし描きたい方向性をしっかり認識して、把握していきたい。
平たくいうと「『こうである』と勝手に思いこみで決めつけずに現状をきちんと把握した上で、自分の選択に自信を持って描いていきたい」ということ。
おわり。
・情報が多く含まれていながら雑然としていない。
・情報量が多いくせに描きやすい形。
・そして情報の少ない空白部分とのメリハリがきいている。
・形状自体はシルエットでみると単純な形。
・構造的な矛盾が少ない。
・そのくせ関節部分は露出せずきちんと保護される。
・プロポーションの傾向にかかわらず「かっこいい」かたち。
・パクリではない
…などなど、挙げると正直きりがないが、何となく羅列してみた。
昔は自分の嗜好というか、自分の描く絵には自分自身否定的であったが、何かここ最近は考え方を変えたいという気持ちが強くなった。
「個性」だとか「画風」だとかで、自分の絵を自分で定義することを極端に嫌っていたので、自分の描く絵に否定的になっていたが、何というか「観念する」とは違うが「定義すること」と、そうであると「認識すること」は違うのかもなぁと最近思うようになった。
実際、今現在も「MoreBetter」をめざしてらくがきを続けているが、現段階で自分がどう思っていようと、描けないものは描けないし、なんだかんだで自分にとって好みの絵を描いてしまう。この、絵に関する方向性ないし好みは、良くも悪くも自分の「特徴」であり「個性」になっている。(個性という言葉は今もスカン)
だからといって、この今の個性に縛られる必要は微塵もなく、これからどうするかは勝手なわけで。
「自分は○○に強い」といった自身に対するある種の思いこみ・自信は描く原動力としても、絵の方向性を決める要因としても十分だと思う。
だが、自分自身、絵を描くという創作活動にこれといった自信は限りなく希薄で、ただ「人並みに描ける分野がある」くらいしか認識していない。というかできない。
だからこそ、個性という言葉に惑わされず、自分の意志で方向性を決めていきたいなぁと思った次第。
それを踏まえた上で、自分の嗜好ないし描きたい方向性をしっかり認識して、把握していきたい。
平たくいうと「『こうである』と勝手に思いこみで決めつけずに現状をきちんと把握した上で、自分の選択に自信を持って描いていきたい」ということ。
おわり。