コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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無気力状態で、若干ネガティブ入っている今の精神状態でぼんやり考えていたことを記す。
内容は駄文。
つまらんです、はい。
自分には取り柄なんて無いと常々思っている。
特に優れた特技もなければ、個人能力・容姿・性格等は平凡以下だと思う。
自己PRなんざ、今の状態だと「特になし」としかいいようがない。
誇れる要素なんてどこにもない、と思う。
このブログに絵をはっつけたりしていますが、これもただのらくがき。この絵心を誇れるはずもない。
また上手い下手ではなく、描きたいから描いていると言っていい。
幼少の頃から唯一好きで続いている、趣味といった具合。(あまりブログに絵を添付せずにすみません…)
さて、この「幼少の頃から続けている」事に関して「何事であれ継続力がある」という見方を持つ人がいるかもしれない。
ところが、自分からいえば「惰性で描き続けただけ」としかいいようがない。誇れるわけあるか!と当たり前に思う。
また、自分自身は「絵は好きじゃない」と思っている。「自分の考えをかくのが好き」とは、いえると思う。
だが見方を変えると「幼少の時から絵を描き続けていて好きじゃないっておかしい」と思う人もいるのかもしれない。
確かに、絵は確実に上手くはないが10年以上描き続けてきた。ここまで続けられたのは「絵が好きだから」といえるのかもしれないし、上記の自分の考えのような「自分の考えをかくのが好き」だったからなのかもしれない。
今回何が言いたいのかというと、ある事象に対して、個人の捉え方によって考え方が変わってくるなぁということ。
ましてや自分の行いですら、捉え方で変わってくる(と思う。強くは言えないけれど)
上記の様なケースにおいて「継続力がある」もしくは「絵を描くのが好き」と自分で思っている人もいるのかもしれない。
が
それも思いこみなんじゃないか、と思った。
良くも悪くも自分自身で見た自分自身の行動で、自分自身の性格・性質を思いこんでいるだけなのかもしれないと思った。
ンでもって、自分はどうしたいかというと、自信は持ちたいと思いつつも、そういった行動に自惚れたくないという、何とも二律背反な心情を常々胸中に抱えているわけでございます。
「継続力がある」と言えるのかもしれないけれども、好きでやっているわけだから「継続力」といった忍耐を重ねて努力したなんて事は全くない。
長年描いてきたから「絵が好き」なのかもしれないが、本当に絵の好きな人は絵を描くことに面倒くさがらず黙々と取り組んでいるに違いない。
なんて思っていると、これらが取り柄なんて思えないわけです。
自信って何だろなぁ…
内容は駄文。
つまらんです、はい。
自分には取り柄なんて無いと常々思っている。
特に優れた特技もなければ、個人能力・容姿・性格等は平凡以下だと思う。
自己PRなんざ、今の状態だと「特になし」としかいいようがない。
誇れる要素なんてどこにもない、と思う。
このブログに絵をはっつけたりしていますが、これもただのらくがき。この絵心を誇れるはずもない。
また上手い下手ではなく、描きたいから描いていると言っていい。
幼少の頃から唯一好きで続いている、趣味といった具合。(あまりブログに絵を添付せずにすみません…)
さて、この「幼少の頃から続けている」事に関して「何事であれ継続力がある」という見方を持つ人がいるかもしれない。
ところが、自分からいえば「惰性で描き続けただけ」としかいいようがない。誇れるわけあるか!と当たり前に思う。
また、自分自身は「絵は好きじゃない」と思っている。「自分の考えをかくのが好き」とは、いえると思う。
だが見方を変えると「幼少の時から絵を描き続けていて好きじゃないっておかしい」と思う人もいるのかもしれない。
確かに、絵は確実に上手くはないが10年以上描き続けてきた。ここまで続けられたのは「絵が好きだから」といえるのかもしれないし、上記の自分の考えのような「自分の考えをかくのが好き」だったからなのかもしれない。
今回何が言いたいのかというと、ある事象に対して、個人の捉え方によって考え方が変わってくるなぁということ。
ましてや自分の行いですら、捉え方で変わってくる(と思う。強くは言えないけれど)
上記の様なケースにおいて「継続力がある」もしくは「絵を描くのが好き」と自分で思っている人もいるのかもしれない。
が
それも思いこみなんじゃないか、と思った。
良くも悪くも自分自身で見た自分自身の行動で、自分自身の性格・性質を思いこんでいるだけなのかもしれないと思った。
ンでもって、自分はどうしたいかというと、自信は持ちたいと思いつつも、そういった行動に自惚れたくないという、何とも二律背反な心情を常々胸中に抱えているわけでございます。
「継続力がある」と言えるのかもしれないけれども、好きでやっているわけだから「継続力」といった忍耐を重ねて努力したなんて事は全くない。
長年描いてきたから「絵が好き」なのかもしれないが、本当に絵の好きな人は絵を描くことに面倒くさがらず黙々と取り組んでいるに違いない。
なんて思っていると、これらが取り柄なんて思えないわけです。
自信って何だろなぁ…
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今日ふと創作活動においての今後の指針になりそうなキーワードを得たり。
あくまでもその発想自体が途上であり、必ずしも理想の創作における指針になるとは限らない。
とりあえず記す。
デザインは排他的ではなく、複数の要素の兼ね合い・バランスが重要
…当たり前といえば当たり前だが、つい最近やっと「実感」した。
今までの自分の創作スタンスはキーワードを決めたらそれに向かって無駄なものはなるだけそいでいく方法。
だから、考えたアイデアの形はそのキーワードの密度が極めて高い(と思う…)。
この方法だと情報をまとめて余分な要素を省くので、全体の統一感があって、カッチリする。
だがこの方法だと、明らかに「決めたキーワード」の情報が集約しすぎてしまい、また他の要素も省かれているので全体的にキツキツな印象を持たせてしまう。そのキーワードだけで構成しようと思ってしまうから。
上記の方法をひたすらやってきた自分だが、ふと食べ物に置き換えて考えてみた(何の脈絡もない)
たとえば「甘いもの」が食べたいとする。そんなときなにを食べるか?
お菓子を食べることはままあるが、砂糖を直接食べる人間は稀だろう。
和菓子、洋菓子、スナック菓子、チョコレート…etc
「甘いもの」といって挙げられる食べ物は半端無く多い。
そしてそれらは「甘いもの」でありながら、使われている材料はそれぞれバラバラ。(当たり前)
この「甘いもの」の考えをデザインで考えてみた。
あるアイデアに基づくキーワードがあるとする。
今まではそのキーワードに一番直接的な表現だけを用いて考えてきた。(甘いもので喩えるなら「砂糖」だけ)
だが、そのキーワードを満たす方法は、その直接的な表現だけではなく、他の複数の要素を組み合わせても表現できるのだ。(「甘いもの」に挙げられる多種多様な食べ物)
そんなことをふと実感した。
また「根詰める」だけがデザインでもなく、楽な状態だからこそ出来る形も必ずある。
煮詰まった状態では大半が「根詰まった」デザインになることが多い。
考えて考えて形にしているとは思うが、悲しい意味でワンパターンになっていると言えるのかもしれない。
だからこそ、楽な状態というか「余裕」をデザイン自体に持たせることも重要なのかもしれないなぁと思う。
まだこれらの考えを断言できるわけもないが、なんかこれからの創作活動において何らかの道しるべになってくれそうな気がするので、この考えに基づいて考えていこうと思う。
あくまでもその発想自体が途上であり、必ずしも理想の創作における指針になるとは限らない。
とりあえず記す。
デザインは排他的ではなく、複数の要素の兼ね合い・バランスが重要
…当たり前といえば当たり前だが、つい最近やっと「実感」した。
今までの自分の創作スタンスはキーワードを決めたらそれに向かって無駄なものはなるだけそいでいく方法。
だから、考えたアイデアの形はそのキーワードの密度が極めて高い(と思う…)。
この方法だと情報をまとめて余分な要素を省くので、全体の統一感があって、カッチリする。
だがこの方法だと、明らかに「決めたキーワード」の情報が集約しすぎてしまい、また他の要素も省かれているので全体的にキツキツな印象を持たせてしまう。そのキーワードだけで構成しようと思ってしまうから。
上記の方法をひたすらやってきた自分だが、ふと食べ物に置き換えて考えてみた(何の脈絡もない)
たとえば「甘いもの」が食べたいとする。そんなときなにを食べるか?
お菓子を食べることはままあるが、砂糖を直接食べる人間は稀だろう。
和菓子、洋菓子、スナック菓子、チョコレート…etc
「甘いもの」といって挙げられる食べ物は半端無く多い。
そしてそれらは「甘いもの」でありながら、使われている材料はそれぞれバラバラ。(当たり前)
この「甘いもの」の考えをデザインで考えてみた。
あるアイデアに基づくキーワードがあるとする。
今まではそのキーワードに一番直接的な表現だけを用いて考えてきた。(甘いもので喩えるなら「砂糖」だけ)
だが、そのキーワードを満たす方法は、その直接的な表現だけではなく、他の複数の要素を組み合わせても表現できるのだ。(「甘いもの」に挙げられる多種多様な食べ物)
そんなことをふと実感した。
また「根詰める」だけがデザインでもなく、楽な状態だからこそ出来る形も必ずある。
煮詰まった状態では大半が「根詰まった」デザインになることが多い。
考えて考えて形にしているとは思うが、悲しい意味でワンパターンになっていると言えるのかもしれない。
だからこそ、楽な状態というか「余裕」をデザイン自体に持たせることも重要なのかもしれないなぁと思う。
まだこれらの考えを断言できるわけもないが、なんかこれからの創作活動において何らかの道しるべになってくれそうな気がするので、この考えに基づいて考えていこうと思う。
多分ナンバーを打っても大丈夫だと思うから大仰なタイトルを付けた。
最近、人顔の練習絵ばっかり載せてタイトルの名折れではないか!!
と思ったので、久しぶりにここに書こうと思う。
以前考えていた「アーモリー」は見事に投げッパ。そして今はだいぶ前に考えていた(これまた途中で投げた)アイデアを形にしようと奮闘中。
投げ癖だけはどうにかしたい…
さて本題。
今回のコンセプトは「文字をデザインにぶち込め!」
以前やりましたが、今回もそれにならってやっています。
以前(多分過去の日記に載っていると思う)のネタは「ミサイル」でしたが、今回は「雷電」という漢字に着目してそれを形状の中にねじ込んでいます。
ボデーにたくさんついているダクト等は、この漢字をねじ込んだなごりです。
前回の時は全体的に同じ形状、凹凸のない同じ面での構成になってしまったことを反省し、特定の面を見てどうにか「漢字っぽい」程度のニュアンスで組み込めたらなぁと思っています。
ただ今回は前回と違い、雷と電と形が似ているし、それを連結させると必然的に似通った形状に落ち着いてしまうので、なるべく形のバリエーションを持たせたいなぁと思って考えています。
が!
ただでさえ複雑なのに、これ以上バリエーションを持たせて複雑化させると、今度は描く意欲が減退してしまうので、なるべくシンプルな形でありたいという気持ちもあり…
「バリエーションを持たせつつシンプルに」という矛盾をはらんだ目標を掲げている状況です。
現状でも、全体をくっつけて描いている段階で足と腕がはみ出ました…これに無双と背部バックパックもくっつけないといけないので、正直しんどい…
もっと形状を単純にしつつも、個性あるロボにしようと画策中の今日この頃。
説明しようとすると文章が必然的に長くなってしまうので、それを考えるのにも時間が掛かって大変だべ。
最近考えていることを記す。
いつぞやの日記(http://miretamonjayaki.blog.shinobi.jp/Entry/203/←って4ヶ月も前か…)において
『「この作風が自分の個性」とか勝手に開き直りたくない。下手なのが個性だ!?それは思考停止ならぬ向上停止だと思う。』
と書いた。
これの意見はその通りだと思うし、下手くそな現状に満足するのはイカンと思う。
だがひとつ思うに、絵の上手い下手関わらず「自分の作風」というものが個々に必ずあると思う。
自分の描く形がワンパなのは正直どうにかしたいが、これと作風が直結しているのか?発想と作風は別なんじゃないか?という気持ちが生まれた。
また、今の自分の作風はこれまで培ってきたものの結果であり、この作風を自分自身で否定する事に関して若干の疑問が湧いてきた。
持っているものをより良く、幅を広げていこうという心持ちの方が楽なんじゃないかと思う。
今少なくとも、満足いかないまでも、今までの経験から得た「自分の作風」とやらをすでに「持っている」。
『「理想の作風」を持たないと「自分の作風」なんてクソだ』という考えがいつぞやの日記の時にあったかどうかは分からないが、少なくとも現状のみの判断で否定することは止めたいと思う。
現状を受け止めて理想と折り合いを付けて、作風に自信が持てるようになりたい。
なぜこんな事を考えているのかというと、自分自身で「作風の否定」から、考え中のネタの軸がぶれていくことがあるから。
不満は当然出るとは思うが、形を完成させる前からそういった不満を噴出させて途中放棄なんてしょっちゅう。
だからこそ、そういったネタのぶれ、途中放棄を防ぐために、多少の作風に関する自信というかなんというか「しょうがない」程度の気持ちの折り合いを付けて形にする努力をしないからいつまで経っても完成しないんじゃーーー!!!!!!
という気持ちが強まってきたため。(セルフ突っこみ)
そんなわけでどうにかしようと思う。
簡単にいくわけ無いけれども。どうにかしないとしょうがない。
いつぞやの日記(http://miretamonjayaki.blog.shinobi.jp/Entry/203/←って4ヶ月も前か…)において
『「この作風が自分の個性」とか勝手に開き直りたくない。下手なのが個性だ!?それは思考停止ならぬ向上停止だと思う。』
と書いた。
これの意見はその通りだと思うし、下手くそな現状に満足するのはイカンと思う。
だがひとつ思うに、絵の上手い下手関わらず「自分の作風」というものが個々に必ずあると思う。
自分の描く形がワンパなのは正直どうにかしたいが、これと作風が直結しているのか?発想と作風は別なんじゃないか?という気持ちが生まれた。
また、今の自分の作風はこれまで培ってきたものの結果であり、この作風を自分自身で否定する事に関して若干の疑問が湧いてきた。
持っているものをより良く、幅を広げていこうという心持ちの方が楽なんじゃないかと思う。
今少なくとも、満足いかないまでも、今までの経験から得た「自分の作風」とやらをすでに「持っている」。
『「理想の作風」を持たないと「自分の作風」なんてクソだ』という考えがいつぞやの日記の時にあったかどうかは分からないが、少なくとも現状のみの判断で否定することは止めたいと思う。
現状を受け止めて理想と折り合いを付けて、作風に自信が持てるようになりたい。
なぜこんな事を考えているのかというと、自分自身で「作風の否定」から、考え中のネタの軸がぶれていくことがあるから。
不満は当然出るとは思うが、形を完成させる前からそういった不満を噴出させて途中放棄なんてしょっちゅう。
だからこそ、そういったネタのぶれ、途中放棄を防ぐために、多少の作風に関する自信というかなんというか「しょうがない」程度の気持ちの折り合いを付けて形にする努力をしないからいつまで経っても完成しないんじゃーーー!!!!!!
という気持ちが強まってきたため。(セルフ突っこみ)
そんなわけでどうにかしようと思う。
簡単にいくわけ無いけれども。どうにかしないとしょうがない。