コツコツと人型メカのラクガキをする人間の独り言。本当に独り言。絵は極めて少ない。
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ここ最近、興味・関心がある事と、そうでない事への作業意欲の差が如実に出てきてどうにかしたい。
義務感とかは少なくとも感じる事柄でも、あまり意欲が湧かない。どうしたものか。
「やる気が出る方法」と検索して色々調べた結果、やる気を起こすためには、行動と結果が伴うことが重要らしい。要は「できる」と思いこむこと、か?
また、それ以外に何らかの報酬があることが重要とも。お金ないし名誉ないし、とにかく「やりがいを感じる」こと、か?
とか何とか書いてあるのを見たが、自分の場合はもっと根本的な何かが不足しているような気がする。
たとえば余った時間で何かできるとき、最近は「余った時間で何かする」という考えすら頭に浮かんでこず、ただボーッとしてしまうことが多々ある。根本的に思考が働かない。
選択肢を選ばない以前に、考えが浮かばない・行動するという思考ができない状況に、ぼんやりとした危機感を抱く今日この頃。これはやる気が出ていないに該当するのだろうか?
義務感とかは少なくとも感じる事柄でも、あまり意欲が湧かない。どうしたものか。
「やる気が出る方法」と検索して色々調べた結果、やる気を起こすためには、行動と結果が伴うことが重要らしい。要は「できる」と思いこむこと、か?
また、それ以外に何らかの報酬があることが重要とも。お金ないし名誉ないし、とにかく「やりがいを感じる」こと、か?
とか何とか書いてあるのを見たが、自分の場合はもっと根本的な何かが不足しているような気がする。
たとえば余った時間で何かできるとき、最近は「余った時間で何かする」という考えすら頭に浮かんでこず、ただボーッとしてしまうことが多々ある。根本的に思考が働かない。
選択肢を選ばない以前に、考えが浮かばない・行動するという思考ができない状況に、ぼんやりとした危機感を抱く今日この頃。これはやる気が出ていないに該当するのだろうか?
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最近のネタの枯渇感というかありきたりな発想からの閉塞感から、なぜありきたりになってしまっているのかを考えた。
そして、最近は「ロマン」を追い求めていないと思った。
有り体に言えば、機能よりもギミックや見た目、コンセプトを大切にするような形。
そういった、情動を起こさせるような発想を最近考えていないことに気付いた。
そんなわけで、そういったロマンを追いかけていたであろう、過去のクロッキー帳を久しぶりに覗いてみた。
第一印象は絵が下手であること以上に、白いことだった。
余白が多すぎる!!
当時は精一杯描いたつもりなのかもしれないが、今見るとスカスカでもったいないと思う。
もっと余白に描き込むことを心がけようと思う。
内容はやはり今の自分では思いつかないような形もちらほらあったりなかったり。
やっぱり偏った思考ばかりしていると視野狭窄になりやすいなぁ…
意識しながら気をつけないとイカンなぁ…
※以下駄文
どこかの創作活動における情報交換の内容をピックアップしたサイトで「自分の絵を下手と認識できる方が改善の余地があるからうれしい」といった内容の文章があった。
正直、今の自分にはこの感覚が分からない。
常々、下手であることを痛感するから。
改善の余地がありまくるから。
だから自分にとってはむしろ「今見ても、上手に描けている!」と思えるような絵を描いてみたいという気持ちの方が強い。
また、過去そのような絵を描くことができたのならば、今の自分に描けないはずがない!と励みにもなる。
とはいえ、仮に1つ満足できるようなものを描くことができたとして、それが自信につながるなんてありえないと思う。
なぜならば、上手く描けたのは自分の描くカテゴリの一部に過ぎないから。
その方向性しか上手く描けていないことを表すから。
たとえば、上手くまとめて完成度の高いロボ絵が描けたからといって、人物絵をその完成度の高いロボ絵ほどの内容に仕上げることができるかといえば、必ずしもそうとは限らない。(むしろそうなることなどありえない!)
あくまでも上手く描けたものは、描きたいジャンルの一部煮すぎないことを念頭に置かなければならないと思う。
などと、絵に自信を持ちたい一方で、それを否定する相反した考えが浮かぶ毎日。
そして、最近は「ロマン」を追い求めていないと思った。
有り体に言えば、機能よりもギミックや見た目、コンセプトを大切にするような形。
そういった、情動を起こさせるような発想を最近考えていないことに気付いた。
そんなわけで、そういったロマンを追いかけていたであろう、過去のクロッキー帳を久しぶりに覗いてみた。
第一印象は絵が下手であること以上に、白いことだった。
余白が多すぎる!!
当時は精一杯描いたつもりなのかもしれないが、今見るとスカスカでもったいないと思う。
もっと余白に描き込むことを心がけようと思う。
内容はやはり今の自分では思いつかないような形もちらほらあったりなかったり。
やっぱり偏った思考ばかりしていると視野狭窄になりやすいなぁ…
意識しながら気をつけないとイカンなぁ…
※以下駄文
どこかの創作活動における情報交換の内容をピックアップしたサイトで「自分の絵を下手と認識できる方が改善の余地があるからうれしい」といった内容の文章があった。
正直、今の自分にはこの感覚が分からない。
常々、下手であることを痛感するから。
改善の余地がありまくるから。
だから自分にとってはむしろ「今見ても、上手に描けている!」と思えるような絵を描いてみたいという気持ちの方が強い。
また、過去そのような絵を描くことができたのならば、今の自分に描けないはずがない!と励みにもなる。
とはいえ、仮に1つ満足できるようなものを描くことができたとして、それが自信につながるなんてありえないと思う。
なぜならば、上手く描けたのは自分の描くカテゴリの一部に過ぎないから。
その方向性しか上手く描けていないことを表すから。
たとえば、上手くまとめて完成度の高いロボ絵が描けたからといって、人物絵をその完成度の高いロボ絵ほどの内容に仕上げることができるかといえば、必ずしもそうとは限らない。(むしろそうなることなどありえない!)
あくまでも上手く描けたものは、描きたいジャンルの一部煮すぎないことを念頭に置かなければならないと思う。
などと、絵に自信を持ちたい一方で、それを否定する相反した考えが浮かぶ毎日。
前々からそうだが、自分はロボ絵を形にするスピードが極めて遅い。鈍足・牛歩。
この前、一日でどのくらい形にすることができるか試したところ、あまり芳しくない結果となった。
以前、勢いで描いたロボをモチーフに再考して完成させようと思い「元の形があるから1日で何とかなるかも」と思っていたら案の定、完成しなかった。
具体的にいえば、胴体の形ですったもんだで煮詰まって。
突発的に思いついたネタを組み合わせてみようと思い、ああだこうだと試行錯誤している間に方向性が見失ってしまった。
突発的な、突然降ってくるアイデアは一見して新鮮でいい案に見える。
だが、その新ネタを詰め込むか今までの方向性で行くかを全体を見て、より完成度が高くなる方を選択するべきなのだろう。
けれども、実際問題、噛み合うかどうかはともかく試してみたくなってしまう。
これのおかげで方向性を見失い、やる気が削がれて集中できなくなってしまうことが多々ある。
取捨選択を客観的にできるようになりたい。
具体的な対策はないが、客観的に把握するためには、今の自分では「時間をおいて見る」ことしかできない。
結局、これも時間がかかってテンポが崩れてしまう…
なんだかなぁ。
この前、一日でどのくらい形にすることができるか試したところ、あまり芳しくない結果となった。
以前、勢いで描いたロボをモチーフに再考して完成させようと思い「元の形があるから1日で何とかなるかも」と思っていたら案の定、完成しなかった。
具体的にいえば、胴体の形ですったもんだで煮詰まって。
突発的に思いついたネタを組み合わせてみようと思い、ああだこうだと試行錯誤している間に方向性が見失ってしまった。
突発的な、突然降ってくるアイデアは一見して新鮮でいい案に見える。
だが、その新ネタを詰め込むか今までの方向性で行くかを全体を見て、より完成度が高くなる方を選択するべきなのだろう。
けれども、実際問題、噛み合うかどうかはともかく試してみたくなってしまう。
これのおかげで方向性を見失い、やる気が削がれて集中できなくなってしまうことが多々ある。
取捨選択を客観的にできるようになりたい。
具体的な対策はないが、客観的に把握するためには、今の自分では「時間をおいて見る」ことしかできない。
結局、これも時間がかかってテンポが崩れてしまう…
なんだかなぁ。
※主に独り言
地震の影響はなかったがニュースやらで事態があまり好転していない状況にへこみ、創作意欲が減退中だったが、ここ最近ようやっと戻ってきた。
振り返ってみるに、自分にとって「絵を描く」という行為が、一番長続きしている。
自発的な活動、習い事諸々で。
そう考えてみると、絵を描くことが一番、自分にとって自己実現できる手段というか、自己表現に適していたのかもしれない。
が、幼稚園の頃位から絵に興味を持ち、今に至るまで描いてはいるものの、絵を描くにあたっての姿勢が未だに分からないというか、掴めない。
「一発で仕上げたる!」とか勢いづいて描き出すと、必ずと言っていいほど線が固くなったり発想が固くなる。
逆に特に意識せず楽な感じで描くと、思いの外うまくいくこともある。
この意識しない方法が、未だに掴めない。
無欲に徹すればいいのだろうが、どうやったらそんな気持ちで打ち込めるのだろう。
たぶん、慣れの問題がかなりの割合を占めるのだろうが…‥やっぱり慣れなのかなぁ…
ふとした瞬間になにか意識し出すと「絵を描く」という行為自体にエネルギーが必要になる。
だからエネルギーが足りないと、描こうと思わない。
一度描き始めると、勢いでそれなりに動けるが、初動にものすごく手間がかかる。
これのおかげで一時期、自分は「絵を描くこと」が好きじゃないんじゃないかと、自問自答していた。
絵を描くことは好きだが、しんどい。
本当に好きな人は「しんどい」なんて思わないのかもしれないが、自分はその人達ほど絵を描くことに慣れていないのだろう。
自発的な活動は欲求があってこそ、行動に移せるものだと思う。
しかし、絵を描くことに欲求を持ってくると、逆にエネルギーが必要になる。
そう考えるとむしろ、いままで楽しすぎてきたのか?
分からない。
そんなこんなで現在、絵を描くにあたって自分が実現したいスタンスは
「欲求があれども意識せず、楽な気持ちで絵を描ける」
こんな状態で打ち込めるようになるのはいつになる事やら…
地震の影響はなかったがニュースやらで事態があまり好転していない状況にへこみ、創作意欲が減退中だったが、ここ最近ようやっと戻ってきた。
振り返ってみるに、自分にとって「絵を描く」という行為が、一番長続きしている。
自発的な活動、習い事諸々で。
そう考えてみると、絵を描くことが一番、自分にとって自己実現できる手段というか、自己表現に適していたのかもしれない。
が、幼稚園の頃位から絵に興味を持ち、今に至るまで描いてはいるものの、絵を描くにあたっての姿勢が未だに分からないというか、掴めない。
「一発で仕上げたる!」とか勢いづいて描き出すと、必ずと言っていいほど線が固くなったり発想が固くなる。
逆に特に意識せず楽な感じで描くと、思いの外うまくいくこともある。
この意識しない方法が、未だに掴めない。
無欲に徹すればいいのだろうが、どうやったらそんな気持ちで打ち込めるのだろう。
たぶん、慣れの問題がかなりの割合を占めるのだろうが…‥やっぱり慣れなのかなぁ…
ふとした瞬間になにか意識し出すと「絵を描く」という行為自体にエネルギーが必要になる。
だからエネルギーが足りないと、描こうと思わない。
一度描き始めると、勢いでそれなりに動けるが、初動にものすごく手間がかかる。
これのおかげで一時期、自分は「絵を描くこと」が好きじゃないんじゃないかと、自問自答していた。
絵を描くことは好きだが、しんどい。
本当に好きな人は「しんどい」なんて思わないのかもしれないが、自分はその人達ほど絵を描くことに慣れていないのだろう。
自発的な活動は欲求があってこそ、行動に移せるものだと思う。
しかし、絵を描くことに欲求を持ってくると、逆にエネルギーが必要になる。
そう考えるとむしろ、いままで楽しすぎてきたのか?
分からない。
そんなこんなで現在、絵を描くにあたって自分が実現したいスタンスは
「欲求があれども意識せず、楽な気持ちで絵を描ける」
こんな状態で打ち込めるようになるのはいつになる事やら…
ここ数日の出来事で、安全について認識を改めざるを得ないと思った。
特に「安全」を掲げたり、それを売りとするのであれば。
何をもって安全であると言い切れるのか?
安全である根拠は?
「安全」というラベルを貼るより「どこまでなら安全か」を明示すべきなのかもしれない。
「とにかく安全」と精神論の如く掲げるのは、なにか悪質なキャッチセールスを連想させる。
また「安全である」と宣言した以上、想定外という言葉はあまり使うべきではないと思う。
…なんてことを思った。
絶対に安全なんてことはありえないのだから、どこまでなら安全かのボーダーラインを示した方が賢明なのかもしれない。
とりあえず、非常時に非常用の装置が働かないという非常事態が起こった以上、きちんと検証してなるべく「例外中の例外」を潰していってほしいと切に願う。
特に「安全」を掲げたり、それを売りとするのであれば。
何をもって安全であると言い切れるのか?
安全である根拠は?
「安全」というラベルを貼るより「どこまでなら安全か」を明示すべきなのかもしれない。
「とにかく安全」と精神論の如く掲げるのは、なにか悪質なキャッチセールスを連想させる。
また「安全である」と宣言した以上、想定外という言葉はあまり使うべきではないと思う。
…なんてことを思った。
絶対に安全なんてことはありえないのだから、どこまでなら安全かのボーダーラインを示した方が賢明なのかもしれない。
とりあえず、非常時に非常用の装置が働かないという非常事態が起こった以上、きちんと検証してなるべく「例外中の例外」を潰していってほしいと切に願う。